ビュクリュカレ
松村 公仁 アナトリア考古学研究所研究員
第7次ビュクリュカレ発掘調査(2015年)
今年度のビュクリュカレ遺跡の発掘では例年のような予想外の重要な遺物は出土しませんでしたが、事故もなく順調に調査を終了することが出来ました(図1)。
今年度の査察官は、研究所に隣接しているカレホユック考古学博物館の学芸員でもあるペンペ・ギュルソイさんが文化観光省より派遣されてきました。常日頃からお世話になっている方ということもあり、和やかに調査を進めることができました(図2)。
ビュクリュカレ遺跡の発掘には私が授業を行っているクルシェヒル県アーヒーエヴラン大学考古学科の学生が参加しています。発掘は学期中に行われるため、学生が何週間も授業を休んで参加することは難しく、グループに分けて1−2週間ずつ参加します。ほとんどの学生が発掘経験のない1、2年生のため、学生の動機付けになればと期待しています。今年は彼らに加えて、考古学科を卒業し大学院に進む予定の二人の学生が参加しました。彼らは発掘区を担当することも含め、より責任ある立場に置かれます。こうして参加した学生の中から一人でも考古学の道に進もうとする学生が出てきてくれればと思っています。
また発掘期間中には下村文部科学大臣のご訪問を受け、調査成果をご覧いただきました。
発掘調査
今年度の調査は昨年度に引き続き、ヒッタイト時代層の調査解明に主眼を置いて行いましたが、この点に関しては着実な成果を挙げることが出来ました。昨年に引き続き遺丘の北側部分を中心に発掘を行いました(図3)。今年度は過去2年間調査を行ったヒッタイト時代の粘土板片が出土した火災層の続きをより一層理解するために発掘区域を広げて調査を行いました。
結果、それより古いと考えられた火災層が(第III建築層W300)粘土板の出土した建築層(第I建築層W228)と同一のものであることが明らかになりました(図4)。そしてその火災層を追うために西側の発掘区を調査し、最終日にようやく火災にあった建築遺構の床面まで達することが出来ました(図5)。粘土板こそ出土しませんでしたが、新たに理解出来たことがあります。それはこの建築遺構北壁の北側部分が急激に傾斜して落ちていっているということです(図6)。このことは建物の北側には同時期の建築遺構が、同じ高さでは存在しなかったことを示しています。これまで、この建物の北側には城壁があったと想定していたのですが、高まりの上に作られたこの建物は城壁に囲まれていなかったことが理解されました。
粘土板が出土した火災層の下で見つかった、火災を受けていない建築層(第II建築層W313:図4)の調査では、礎石が東西方向に伸びており、その北側には日干し煉瓦で作られた壁W315が北に向かって延びていました(図7)。その日干し煉瓦の壁に沿って掘り下げていくと漆喰を塗られた壁が現れてきました(図8)。しかし床面は一向に現れず、最終的には2m以上の高さを持つ壁に仕切られた部屋になりました(図9)。 部屋の床面上からは当時使われた遺物は見つかりませんでした。
漆喰の塗られた壁をもつこの建築遺構には建築技法的な特徴があります。南北壁は日干し煉瓦の壁に漆喰が塗られていました。南壁は石の壁でその上から漆喰が塗られていましたが、その大部分が落ちていました。露出した石壁には床から1.5m程の高さの所に水平に円形の穴がほぼ等間隔で並んでいます(図10)。円形の空洞の中を観察すると、そこには朽ちた木片が散在しており、おそらくここには丸太が並べられていたと思われます。同じような構造はカマン・カレホユック遺跡の前期鉄器時代の城壁や後期ヒッタイト時代のズィンズィルリZincirli遺跡の城壁でも報告されています。
このような丸太を並べて石組みに使った例は最近ニーデ県のクヌック・ホユックで見つかっています(d'Alfonso et al. 2015: Fig.11)。この遺跡は現在ニューヨーク大学のアルフォンソ博士が発掘している遺跡です。彼はこの建築技術がヒッタイト本来のものではなく周辺地域の技術であるとし、彼の遺跡ではこの技術を用いた城壁がヒッタイト帝国時代から前期鉄器時代へと継続して用いられており、周辺地域はヒッタイトの中心部とは異なった伝統を持っているのではないかという新たな考えを提出しています。ビュクリュカレ遺跡も同じ技術が見つかったことでヒッタイト帝国とは異なる文化の流れに入る可能性があります。しかしビュクリュカレ遺跡では昨年度の調査でヒッタイト王のものと考えられる印影が出土しており、ヒッタイト帝国の王と直接の関係を持った都市であったと考えていることから矛盾が生じます。この問題を解決するためにも来シーズンはこの漆喰が用いられた建築遺構の調査を拡大していく予定です。
この壁W313の南側では日干し煉瓦の壁が南側に延びていたのですが、日干し煉瓦の壁の上に礎石が組まれていました(図11)。一般的な壁は礎石を組み、その上に日干し煉瓦を積み重ねて作ります。現在の村の家屋では雨水に触れる部分は石で作り、その上に日干し煉瓦の壁を作ります。ここではその逆の形で壁が作られていましたが、その訳はおそらく壁W313の南側の状況によるものです。南側には部屋自体が存在せず、激しく焼けた焼土層が壁に向かって落ち込んでいる状況が明らかとなっており、問題の東西壁はこの焼土層が落ち込んでいる崖の外側に作られていました(図7参照)。この壁を作ってさらにその北側に、階段式に一段下げて他の部屋が作られたのです(図12)。これらのことから火災層の時期にはこの壁W313の南側までが丘であり、その上に建物が建てられていたのが、次の時期には壁W313を作って階段状に一段低いところにさらに北に建築物を拡張したと考えられます。調査が進むにつれてこの東西壁の北側には 部屋が一つ作られたのではなく、その北側にも部屋が存在していたことが、新たに見つかった北側に面を持つ漆喰から理解できました(図13)。この部屋は後期鉄器時代の城壁の下をさらに北に向かって延びています。北へ拡張して建物が建てられたこの時期は、ヒッタイトのどの時代に相当し、それは歴史上どういう意味を持つのかなど興味深い問題が提起されてきており、今後の調査が面白くなってきました。この漆喰の建築遺構を調査するために来年度はこの後期鉄器時代の城壁を取り除いて発掘を進める予定です。
ヒッタイト時代に関する調査ではこれ以外にも幾つかの建築遺構が見つかっており、ビュクリュカレ遺跡においてヒッタイト時代に繰り返し居住が行われていたことを示しています。このことは ビュクリュカレ遺跡においてヒッタイトのほぼ全期間を通して居住が行われた、という昨年度までの出土品から導き出した考えを裏付けるものとなりました。今後それぞれの建築遺構がヒッタイトのどの時代に属するものなのかを明らかにしていく予定です。
これまでの調査結果からビュクリュカレ遺跡では後期鉄器時代、ヘレニズム時代に大規模な建築物が建造されたことが明らかとなってきており、これらの大遺構はそれぞれの時代に大規模に居住されていたことを示しています。
後期鉄器時代の中でも、これまでに明らかになっているのはリディア、アケメネス朝ペルシャの時代に相当すると考えられます。この後期鉄器時代の最初に城壁が作られます(図14)。今年度の調査では後期鉄器時代の城壁について新たな事実が明らかとなりました。これまでこの城壁は、前2千年紀の層にまで掘り込んでその層を破壊して造られたと考えていたのですが、実はこの城壁は当時の地形に沿って作られていたことが解ってきました。前2千年紀の堆積が高く残っている部分では城壁は浅く低く、窪んでいた部分では深く高い城壁が地形に合わせて作られていました(図15)。遺丘の北に向かってより深く城壁が作られているという事実は、後期鉄器時代になって、前2千年紀の遺丘の北側に居住域を拡張させて城壁が造られたことを物語っています。後期鉄器時代というと中央アナトリアではリディアが支配した時代とそれに続くアケメネス朝ペルシャの時代に相当します。この中でもアケメネス朝ペルシャの時代にはビュクリュカレ遺跡のある場所が、ペルシャの首都スーサとリディアの首都であった都市サルディスを結んでいた「王の道」が赤い河を渡河した地点の一つと考えられています(Müller 1994:図16)。そうした交通の要衝に重要な都市が築かれていた可能性は高く、それ故にビュクリュカレ遺跡に大規模な城壁が存在しているのではないかと考えられます。城壁はもちろん防御のために築かれていたと考えられますが、この城壁とともに作られた、城壁と対応するような大型の建築遺構はこれまでの調査では見つかっていません。
遺跡の西側には都市部を横断する形で現在も使用されている無舗装の道が存在していますが、この道は古い石敷きの道に沿って作られています(図17)。この石敷きの道は、南はセルジューク時代の橋の方向に曲がっていますが、そこからは土に埋もれていて続きを確認できていません。北側の先も途中で途切れています。 かつては遺跡の北に今はダムに水没した製粉工場があり、そこに小麦を運ぶためこの石敷きの道が作られた、という村人の話もあるのですが、これがアケメネス朝時代のものである可能性は依然としてあると考えています。
後期鉄器時代の城壁はその後ヘレニズム時代を経てオスマン時代にも再利用されていたことは、オスマン時代の住居がその壁を用いて作られていたことから理解できます。ヘレニズム時代にはこれとは別に30mに及ぶ大型の石敷き遺構が見つかっています。今年度の調査でその北端の隅が見つかりました(図18)。この遺構がヘレニズム時代に属することは、この遺構を取り外した後に見つかったピットからウンゲンタリウムと呼ばれる土器の破片が出土したことから理解されました(図19)。このような大型建築物は一般住居ではありえません。神殿、あるいは宮殿の可能性が高いと考えられますが、これまでのところ残念ながらその手がかりはありません。
ビュクリュカレ遺跡の地は赤い河の渡河地点として戦略上重要であったことは予備調査の時点で明らかでしたが、その後の調査によりこの遺跡には、アッシリア商業植民地時代、ヒッタイト時代、後期鉄器時代(アケメネス朝ペルシャ時代)、ヘレニズム時代に大型建築物が築かれたことが明らかとなりました。今後ビュクリュカレ遺跡に築かれたそれぞれの時代の都市についてさらに理解を深めていきたいと考えています。
参考文献
- ・d'Alfonso, L., N. Highcock, A. Lanaro, A. Matessi, M. Tektaş and A. Trameri
2015:“Kınık Höyük (Niğde), 2013 Yılı Kazısı,” Kazı Sonuçları Toplantısı 36(2), pp.489-516. - ・Müller, D.
1994:Von Kritalla nach Doriskos: die persische Königsstrasse und der Marschweg des Xerxesheeres in Kleinasien. Istanbuler Mitteilungen 44, pp.17-38.
第7次ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2015年)中間報告
4月末から始まった2015年度ビュクリュカレ遺跡発掘調査も1ヶ月を経過しました。
今年は6月に入っても雨の多い異常気象が続いています。幸い発掘作業が出来なかった日はこれまで1日だけでしたが、夜に雨が降ったために発掘が思うように進まない日がたびたびありました。
本年度の調査ではヒッタイト時代の層を目指して発掘を進めています。これまで驚くような遺物は出土していませんが、一昨年まで見つけることの出来なかったヒッタイト時代の層が今年は何層も確認されています。予想以上にヒッタイト時代に居住されていたことがわかってきました。(6月16日)

ビュクリュカレ遺跡
第7次ビュクリュカレ遺跡発掘調査(2015年)を開始しました

ビュクリュカレ遺跡

保護屋根取り外し作業
ビュクリュカレ遺跡第7次発掘調査は、4月27日よりテントを設営し、保護屋根を外し始めました。その後発掘区の清掃を行い、5月1日より発掘を開始しています。本年度は昨年に続き、紀元前2千年紀、ヒッタイト時代の層を追って調査を行う予定です。これらの作業と同時に都市部の地中探査作業も行われています。(5月2日)

ビュクリュカレ遺跡

地中探査作業の様子